“両極端の違い”を体感しながら思うこと。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

最近身の回りで起きること、体感することがどこかに似通っています。

“両極端の違い”を見せつけられて選択を迫られている感覚。

実は先週末から京都に来ていて一日目は東福寺と伏見稲荷大社を観に行ってきたのですが、東福寺は観光客も少なく、時間の流れを忘れてしまうほどの静けさ。

一方、伏見稲荷大社は東福寺から歩いて10分程度の距離でしかないのに、訪日外国人へ向けたテーマパーク化した観光地という感じで非常に賑やか。

そこから「イオンモールKYOTO」へ行ってみると、これだけ外国人が多い京都なのにもかかわらず、あの建物の中には全く外国人の姿を見ることなく、現地の人々で溢れかえっているという…。

他にも最近では、マスメディアとミニコミを意識させられる出来事であったり、商業的と職人的の違いを見せつけられたり、常に“両極端な対比”を見せつけられ、「結局お前はどっちを選ぶの!?」と迫られている感じがしました。

そんな経験をここ何日かしてみて、自分が導き出した結論は「どちらでもなく、どちらも見ること。どちらにも触れること。」なんだと。「両極端な主張ばかりで、真ん中のみちが空いているよ?」とは僕の尊敬する人の言葉なのですが、本当その通りだと思います。

大切なのは対比を「意識」すること。古くは「二足のわらじ」最近では「デュアルライフ」などという言葉も流行っていますが、まさにそんな感覚。どちらでもない、どちらもとるということなのでしょう。それが今の時代にまた求められ始めているんなんだろうなと。

参照:観光はグローバル化をプラットフォームとしている。 | 隠居系男子

こうゆう話になると、すぐに「両方で学んだことを融合させろ!」という主張がなされますが、僕の個人的な考えとしては、そんなことすら必要ないと思っています。

時には、そうやってマッシュアップすることで生まれる新しいアイディアも大切かもしれません。しかし、ただ”知っている”ということだけでも十分価値のあるものなのではないでしょうか。

片方の道を通ってきたからこそ、もう片方の道を通るだけで得られる価値観があるはずです。
両極端を見ることによって、その自分の経験自体が必ずフックに成り得るはずですから。自然と「なぜ」や「どうして」という疑問が頭に浮かんでくる。

参照:問題や課題は「どうすれば〜?」という疑問文に置き換えるとすごい捗る! | 隠居系男子

片方に集中しすぎないこと。今の自分の立ち位置を俯瞰的に理解できるぐらいの視点を一段高くして、常に対比の中から導き出し実行することが大切なのだろうなと思います。

それが今の時代における「戦いの螺旋を降りる」ということなのかもしれませんし、「中庸」や「隠居的な発想」ということなのかもしれません。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

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