自分にとって納得感のある「ハレ」と「ケ」のバランスを見つけ出すことが大切。

最近よく思うのですが、結局は「ハレ」と「ケ」のバランスなんだろうなあと。

パリピと呼ばれる人たちは、「ハレ」に振り切った人たち。

丁寧な暮らしと呼ばれる人たちは、「ケ」に振り切った人たち。

どちらのタイプも積極的に情報発信をしているから、それに憧れて、彼らの生活を真似したくなってくる。

参照:「暮らし」に関する論争をみていて思うこと。 | 隠居系男子

「ハレ」と「ケ」のバランス。

でも、そうやって真似してみて「ハレ」を取り入れすぎてしまうと身体を壊してしまいます。

一方で、「ケ」ばかりを追い求めてしまうと、鬱っぽくなってくる…。

どの程度の「ハレ」と「ケ」のバランスが自分にとって丁度よくて、納得感のある状態なのか、それを見つけ出すことの方が大切なのだろうなと。

以前書いた断捨離の話と同様で、自分の中でカチッと音がするようなバランスを追い続けること。

参照:断捨離派も収納派も、大掃除のポイントは「一度全部出して、自分の持ち物を全て把握すること」。 | 隠居系男子

なぜ今、文化人類学なのか?

そして、この「ハレ」と「ケ」のバランスのヒントって意外にも地方の行事や習慣にあったりする。

地方のお祭りや儀式の内容と頻度って、やっぱり上手くできているんですよね。

だから、いま文化人類学が流行り始めている理由もそこにあるのではないか?と僕は思うのです。

以前、何かの本で「教養とは、異なる文化や思想に触れること。」と書いてありました。

今このタイミングで教養という言葉を使う人たちが増え始め、文化人類学のような視点から他者の生活や文化を知りたいと追い求め始た理由。それは、今の情報過多な時代に疲れてしまった人たちが、きっと無意識のうちに人類の叡智を追い求めるようになり、それをヒントに自分たちのリズムを取り戻そうとしているからなのではないのかなと。

かなりフワッとした話ですが、そんなことを考える今日このごろです。

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