「暮らし」に関する論争をみていて思うこと。

どうも鳥井(@hirofumi21)です。

昨日書いた以下の記事。伝わる人には伝わったみたいで嬉しいです。

参考:「アウトプット→インプット→歩く」これを1日3回繰り返すことができたら、その日は最高にうまいビールが飲める。仕事で大切なのは、環境ではなく循環。 | 隠居系男子

今の「暮らし」界隈で起きている論争というのも、この「環境と循環の違い」を混同して語ってしまっているから、起きていることだと思っています。

「環境」と「循環」を一緒くたに語ってしまうから、「上質な暮らし(笑)」となってしまうし、「暮らしにこだわってるヤツ(笑)」と揶揄されてしまうのかなと。

今日はそんなことについて少し書いてみようと思います。

マスメディア発信の暮らしは「環境」がメインになる。

マスメディアが発信する「暮らし」というのは、やはり「環境」がメインで語られてしまいがちです。

特に雑誌やテレビだと、“物”がメインになってしまう。限られた紙面や時間の中で、注目を集めるのが彼らの役目ですからね。

その結果、「こんな上質な暮らし、憧れるでしょ?」っていう“側”の部分だけを大きく取り上げることになる。

そして、そんな「環境」を見せつけられて、単純に憧れてしまうような層が、こぞってそこに飛び付いてしまうので、嘲笑の対象になってしまうのだと思います。

それっぽい感じを見よう見まねで体現して、ファッションとして消費してしまうからです。

暮らしが注目される人は、「循環」を意識している。

でも、いま再び「暮らし」が注目を集めている理由っていうのは、間違いなくそういった文脈からではありません。

少なくとも、その「暮らし方」が注目されるような方達の中で、理想的な「環境」を求めて、暮らしにこだわっているという人はまずいません。

本当に彼らが実践しているのは「環境づくり」ではなく、暮らしのサイクルであり「循環づくり」

しかし、循環とかサイクルっていうのは、なかなか紙面やテレビでは表現しにくい。それはやはり個別具体的な事案になってしますし、それこそ十人十色ですからね。

しかもその部分(思想も含む)は往々にして“地味”なので、それを限られた範囲内で表現しても引きが弱い。だったら「環境」を集めて、ビジュアルで見せた方がよっぽど読者や視聴者は食いついてくれる。

だから結果的にその過程は全て端折られてしまい、「環境」だけがそれっぽく取り上げられてしまうのだと思います。

最後に

循環というのは、SNSやブログなど日常的にその人をフォローしていかないと、なかなか見極めることは難しいです。

逆に言うと、SNSが発達してきたタイミングで「暮らし」が再び注目されるようになってきたというのも、理に適っているとも言えるのかなと。

大切なのは、わかりやすい憧れの対象として、恣意的に編集された「環境」を真似ることではなくて、自分に適した「循環」を見つけ出すこと

この二つの違いを明確に区別することができれば、いまの「暮らし」における不毛な議論は収束していくのかなと思います。

そして、それをちゃんと表現していくためには、「地味でもいいから」と最初から割り切った編集ができる、ウェブやリトルプレスの様なものなのだろうなとも漠然と感じています。

全然うまく表現できませんが、そんな風に思う今日このごろです。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

スポンサードリンク