昨日、こんなツイートをしてみました。
これは人それぞれ価値観が異なると思いますが、僕はTwitter上でタクシーの運転手さんの悪口を書く人とは、できるだけ一緒に仕事したくないなあと思っています。いつその矛先が自分に向くかわからないから。人間同士だから、不快感を感じることは当然。でもそれをTwitter上で表明するかどうかは別の話。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) July 24, 2019
たぶん、この記事に書いた話に近いのかなと。タクシーには「目的地まで連れて行ってくれる」と信頼はするけれど、それ以上のサービスは期待しない。「期待を裏切られた」と公の場で表明する人とは、できるだけ距離を置きたい。:「信頼」はするけれど、「期待」はしない。 https://t.co/ZCl5XGdpLk
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) July 24, 2019
期待している自分に気付き、そこから生まれた負の感情に影響を受けない。
上記の記事を書いたのは、今から約5年前。
この時点では僕も曖昧でしたが、「期待しない」ということは「期待」という感情自体をなかったことにするわけではなく、「あっ、いま自分は期待しているんだ」ということに気がついて、そこから生まれた負の感情に影響を受けないこと、だと思っています。
人間だから、相手に対して期待してしまうことは至極当然のこと。
大切なことは、その「期待している自分に気づけるかどうか」だと思うのです。
具体的には、どこまでが「信頼」で、どこからが「期待」なのかを、自分の中で明確に峻別できること。
その上で、期待から生まれた感情に影響を受けて、何か不快なことを感じたとしても、それに一喜一憂しないこと。
もうひとりの自分が寄り添ってあげるイメージ。
もし「期待に応えてもらえなかった」という怒りや悲しみの感情が湧いてきたら、「あっ、いま自分は期待していたんだ」と気がつき、怒りや悲しみを感じている自分に対して、もうひとりの自分が寄り添ってあげるイメージです。
参照:役割の自分、名前の自分、それを俯瞰して見ているもうひとりの自分。 | 隠居系男子
でも多くの場合は、その自分を100%全面に出して、自分の「期待」から生まれた負の感情に身を任せて、声を荒げてしまう。だから良くない。
ましてや、その怒りや寂しさのやり場を求めて、Twitter上などで発信して他者に共感を求める、それは結果的に自分を苦しめるだけだと思うのです。(相手を自分の思い通りに支配しようとする気持ちの表れでもある。)
最後に
常にそうやってラベリングしながら、自分の感情に気がついていくことが大切だと僕は思っています。
もちろん「期待」に限らず、この世に存在する全ての名称ある感情や欲望は、人間であれば誰しも必ず感じるもの。
その感じたものを自分の中でどう扱っていくか?(どうラベリングしていくか?)が、人生を幸せに生きるうえでとても大切なことなのだと思うのです。
ラベリングについては、下記の記事内で紹介した『反応しない練習』に詳しいです。
今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの気付きや発見につながれば幸いです。