昨日、ものすごく共感したツイートがありまして。
怒らなければうまくいく。最近つくづくそう思う。怒らせるようしかけられても、怒らなければ、冷静な判断力は奪われない。たとえ怒ってしまっても、その怒りを人に向けない。空に向かって叫ぶなど、いったん沈める。1回1回のりこえると、本当によかったと思い、さらにできるようになる。自信も湧く。
— 山田ズーニー (@zoonieyamada) 2018年6月27日
全く別の文脈で、僕はこんなツイートをしていました。
何かふたつの選択肢で悩んだとき、コストや労力を一切抜きにして「どちらがよりワクワクするか?」という基準でこれまで選んで来たんだけど、最近はそれに加えて「どちらがより胆力を試されるか?」という判断基準が加わってきた。ただ、この感覚ってなかなか言い表し難い。伝わる人に伝われば嬉しい。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年6月27日
このときは気が付かなかったのですが、「胆力を試される ≒ 怒りに耐えられるか」ということなのかもしれません。
今日はそんなお話を少しだけ。
怒らないで、乗り越えられると自信につながる。
確かに、自分が怒らないと、相手は図に乗ります。それは紛れもない事実です。
だから、怒りが強い抑止力になるということは間違いありません。
でも、そのうえでさらにもう一度輪をかけて、優しく接してみる。
そうすると、意外と最初に欲していた目的が達成することってあるんです。
いつも怒りで物事の解決を図っているひとにとっては、「そんなことあるわけがない…!」って思うかもしれないんですが、でもあるんです、不思議なこと。
その成功体験の繰り返しが、ズーニーさんが言うように、自信にもつながるんだと思います。
少なくとも、一度でもうまく行けば、次も怒らないで接してみようって思えてくるはずで。
怒りは必ず「やり場」を求めてしまう。
怒ることってものすごく強力な原動力になります。
でも、その原動力は長くは続かないし、なによりも怒ることそれ自体が目的化してしまいがち。
「怒りのやり場がない」という言葉がソレを象徴するように、怒りというのは、必ずその「やり場」を求めてしまうんです。
その結果、やり場を求めて(誰かと共有したくて)、他者を脅かすようにもなってしまう…。
だから、ほぼ日の「なるべく相手を脅かさないメッセージを選ぶ」という指針を知ったときも、ものすごく素敵だなあと思ったんです。
ほぼ日の「なるべく相手を脅かさないメッセージを選ぶ」っていう指針、とっても素敵だなあ。:NewsPicks さよならおっさん 問題考察の長文|山口義宏@インサイトフォース|note https://t.co/OuLg3WGXed
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年6月26日
これも「僕らは決して怒らないんだ」という胆力の証であり、その覚悟なのだと思います。
最後に
一度でも拳を振り上げてしまうと、後戻りができなくなってしまう…。
でも僕らが拳を振り上げたくなる理由というのは、その拳で誰かを殴りたいわけではなく、本当に達成したい目的(欲求)があるからで。
だったら、その手段に怒りを選ばない。
いつでもその趣旨や本質に立ち返ることができるように、自分の中に存在するありったけの優しさをかき集めて、その目的達成に向けて働きかけたいなあと、僕は思います。
それが僕の考える「より胆力が試されるほう」です。
いつもこのブログを読んでくれている方にも、何かしらの形で参考になれば幸いです。