先日、お酒のプロの方に「料理とお酒が合うの“合う”ってなんですか?」って聞いてみたんです。
その方は、少しだけ真剣に考えたあと、こう答えてくれました。
「一緒に口に入れたときに幸せかどうか、ですね!」と。
これを聞いて、僕はなるほどなあと唸ってしまいました。
食べた本人の心が満たされるかどうか。
美味しさとは本来、とても主観的なものです。
でも、僕らは何か客観的な指標があると思いがち…。
その客観的な指標を求めて、食材のクオリティだったり、一流のひとが調理したかどうかで判断しようとしてしまう。
でも、本当の基準は「食べた本人が、幸せと感じるかどうか」なんですよね。
もっと言えば、「心を満たされたかどうか」だと思うんです。
「クオリティ」や「権威性」はひとつの要素にすぎない。
つまり、「クオリティ」や「権威性」というのは一つの要素にすぎなくて、それが全てではないということ。
「最高の調味料は、大好きな人と一緒に食べることだ」や「空腹こそが、最高の調味料だ」みたいなことをよく口にしますよね。
それも結局、そのほうが「心が満たされるから」だと思うんです。
空腹のタイミングで、大好きな人たちと一緒にごはんを食べれば、何の変哲もない料理だって心が満たされる。
逆に言うと、どれだけ最高級の料理であっても、心が満たされなければ「美味しい」とは感じないはずで。
少しでも投資につながったと思えるから、心が満たされる。
そして、これは「食」に限った話ではないと思っています。
たとえば「衣服」にだって同じことが言えると思います。
これまでは「品質が高い」や「権威性がある」ということが、多くの人たちに共通する心を満たすための基準だった。
でも、今はそれだけじゃなくなってきている、きっとそういうことだと思うんです。
たとえば僕は「作り手さんの生き様に、惚れられるかどうか」が大切な基準になってきました。
参照:販売員が、作り手さんに直接会いに行かなければいけない時代。 | 隠居系男子
生産者さんの生き様に惚れられて、そこに少しでも投資ができたと思えた瞬間、自分の心が満たされる。
逆にどれだけクオリティが高かったとしても、その生き様に惚れることができなければ、なんだか少し寂しい気持ちになってしまいます。
最後に
ということで、僕らがいま本気で考えるべきことは、「それを手にすることで、本当に心が満たされるのかどうか?」なのだと思います。
受け手としての自分は、「どんな瞬間に、自分の心が満たされるのか?」を知ること。
作り手としての自分は、「受け手の心を満たすために、追い求める点や伝えるべき点は何なのか?」を考えること。
そんなことが大切になってきているなあと思う今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくれている方々にも何かしらの参考になれば幸いです。