「逃げたっていいんだよ!」に感じる違和感の正体。

どうも鳥井です。

「逃げたっていいんだよ!」という主張、ここ最近本当によくみかけるようになりましたね。

でも、僕はそれに少しだけ違和感を感じてしまいます。

極端な話、オシャレでカッコよくて最高に楽しそうなイケてる逃げ方を提案してくれれば、みんな全力で逃げ出すと思います。

でも、現状はそうなってはいない。

結局、楽しい逃げ方がまだまだ世の中に足りないということなのではないでしょうか。

「なんで逃げないの?」と聞いてくる人の背中が全く楽しそうじゃない。

「なんで逃げないの?」って不思議そうにいう人もいますが、逃げたいと思ってる人たちからしてみれば「あなたのいるその場所でさえ、ユートピアには見えないから」ということなのでしょう。

「楽しい!」と口ではいくらでも言えるけれど、その背中が全く楽しそうに見えないということなのでしょう。

つまりは、「逃げた先で、全力で楽しそうな姿を私に見せてよ!」ということなのではないでしょうか。

「逃げろ!」と声高に啓蒙活動なんてしなくてもいい。

だから、思うのです。

逃げろと、声高に啓蒙活動なんてしなくていい。

最初は、誰からも見向きもされないから不安になって、「逃げたっていいんだよ!一緒に逃げようよ!」って周りも巻き込んで、誘ってしまいたくなる気持ちもよくわかります。

しかし、そこでグッとこらえて、荒削りでもいいから、まずは自らの手で小さな現実をつくりだすこと。

そして、自分自身が誰よりもその状態を全力で楽しむこと。

すると、放っといても共感してくれた人たちが自然に集ってきてくれます。

それを信じてやるかやらないか、ただそれだけなのではないでしょうか。

参考:一世を風靡した地方のセレクトショップが軒並みダサくなって、小さな現実を作り出そうとしている個人のお店がカッコいい。 | 隠居系男子

自分ができることの限界を知る。

自らの生き方、暮らし方に対して、僕らができることは「自分が信じる最善の道を選び取ること」それだけです。

その選択について、周りの人々がどのような判断を下して評価しようが、それは相手が決めることであって、他人が操作できることではありません。

逆に、無理やり相手の手を引っ張って連れてこようとすればするほど、軋轢が生まれてしまうだけ。

もちろん、無駄に相手に歩み寄って、共感した素振りを見せて一緒に落ち込むことだって違います。

最後に

周りに対して、助言なんてしようと思わないこと。

自分が信じる道をただひたすらに進むこと。

そして、できることであればその姿を風通しの良いところに置いておいて、いつでも誰でも気軽に触れられるようにしておくこと。

あとは全力で知らんぷりです。

そんな風に生きる人が増えてくれば、自然に「逃げよう」と思う人も増えてくるのではないでしょうか。

それでは今日はこのへんで。

ではではー。

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。