先日こんなツイートをしてみました。
最近「ひとり」ということについてよく考える。:ジブリの仕事のやりかた。第1回 ひとりという出発点。ほぼ日刊イトイ新聞 https://t.co/sjcthRec7q
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2017年4月30日
チームをつくると、何をやりたいかじゃなくて、何をやれるのかという視点から話が進んでしまうことがある。もちろん、そこから生まれてくるものもおもしろいといえばおもしろいのですが、やっぱり究極的には「ひとり」の孤独から生まれてくる「やりたい」の方が圧倒的におもしろいものになる。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2017年4月30日
だからこそ、チームというのはいつだって、「ひとり」の「やりたい」を何倍にも増幅する装置であるべきで、出発点から「みんな」で考えるのは違うなと。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2017年4月30日
チームが固定化してしまうのは必然。
チームって、意識しなければ絶対に固定化してしまうんです。
参照:「仲間意識」が生まれると、「奴隷労働」が目を覚ます。 : まだ東京で消耗してるの?
これは、チームを組むという長所の裏返しでもあり、表裏一体の関係にあることだから仕方がない。それが当たり前のことなんです。
チームの“らしさ”に固執しすぎてしまった失敗。
僕らも、明確に失敗した時期がありました。
「灯台もと暮らし」というメディアの“らしさ”にドンドン寄りすぎてしまい、このチームだったら「何をやれるのか」ばかりに固執してしまった時期があります。
その原因は、僕がチームの“らしさ”を強調しすぎたから。
WIRED編集長のインタビューから考える、今の時代に受け入れられるメディアとは? | 隠居系男子
完全に僕のミスです。
でも、そんな時に「どうやったらこのつまらなさを打開することができるのか?」と考えた結果、生まれたのが「ぼくらの学び」という連載企画です。
参照:「灯台もと暮らし」で「ぼくらの学び」特集、はじめました。 | 隠居系男子
この企画をはじめてから、編集者はチームの手足としてネタを外に求めるのではなく、自分自身と向き合って、自らの中に問いを立てて動きはじめてくれました。
その瞬間から、各編集者の顔色がみるみると明るくなって、コンテンツにもまた“おもしろさ”が戻ってきた。
特に編集者・立花は、どんどん自己表現するようになってきましたし、それに呼応するように読者の方々も増えていきました。
これが、「ぼくらの学び」特集で得られた、僕の一番の学びです。
これからの暮らしを考えるために【ぼくらの学び】特集、はじめます。 | 灯台もと暮らし
カリスマ編集長に委ねるのは、もう時代遅れ。
さて、従来はこの「ひとり」の「やりたい」が、1人の独裁的な編集長に委ねられていたのだと思います。そして、その信仰は今も相変わらず強い。
でも僕は、もうそれは違うと思います。
違うというより、時代遅れであり、変えざるを得ない。
なぜなら、下記の書評記事内にも書いたとおり、消費者の価値観やニーズの多様化して来ているから。そして、その変化のスピードも早すぎるから、です。
参照:「内向的な人ほどリーダーになるべき時代」と「若いメンバーは何に飢えているのか」というお話。 | 隠居系男子
カリスマ編集長1人で対応しきれなくて、当然なんです。
だからこそ僕らは、毎回メインボーカルが変わるアイドルグループのように、チームのメンバーひとりひとりが、その場その場で一番実力を発揮できる人間が前に出るべきだと考えます。
これがどれだけ難しいことであり、「そんなの理想論だ!」と罵倒されるようなことであったとしても、自分たちがそうしたいと思うのだから、これはもうやってみるしかありません。
参照:「実現できた!」の成功体験が「次のやりたい!」につながっていく。 | 隠居系男子
最後に
チームを組みつつ、「みんな」を出発点に置かないこと。
もちろん、1人の点取り屋を起点にチームのメンバーを犠牲にすることも違います。
あくまで、出発点は「ひとり」であって、各人の個性から生まれる「やりたい」を大切にすること。そして、最大限チーム内でそれを尊重し合い、増幅すること。
そんなことがこれからは大切になると考える、今日このごろです。