協調性を捨て去り、社交性を身につけて、それでも僕らは生きていく。

昨日、某ウェブメディアさんの対談企画で「多様性」についてお話してきました。

今回、この対談をするにあたり、読んでみた参考文献のひとつが平田オリザさんが書かれた「わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か」。

今日は、この本の中でめちゃくちゃ腑に落ちる部分があったので、その部分を少しだけ引用しつつ、私見を述べてみたいと思います。

「協調性から社交性へ。」

以下、本書からの引用です。

人びとはバラバラなままで生きていく。価値観は多様化する。ライフスタイルは様々になる。それは悪いことではないだろう。日本人はこれからどんどんと、バラバラになっていく。

しかし、人間は社会的な生き物なので、バラバラなだけでは生きていけない。私たちはどうしても、社会生活を営んでいくうえで、地域社会で決めていかなくてはならないことがある。

いままでは、少なくとも一九八〇年代までは、遠くで(霞が関で)、誰かが(官僚が)決めてくれていたことに、何となく従っていれば、いろいろ小さな不都合はあったとしても、だいたい、みんなが幸せになれる社会だった。しかし、いまは、自分たちで自分たちの地域のことについて判断をし、責任を持たなければならない。その判断を誤ると、夕張市のように自治体でさえも潰れる時代が来てしまったのだ。

ただ、この一点が変わったために、日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が、いま、大きく変わりつつあるのだと思う。いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば「心を一つに」「一致団結」といった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。

しかし、もう日本人はバラバラなのだ。さらに、日本のこの狭い国土に住むのは、決して日本文化を前提とした人びとだけではない。だから、この新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。

私はこれを、「協調性から社交性へ」と呼んできた。

倫理観と誠実さを持ち合わせ、人柄が良いこと。

いかがでしょうか。

僕はこの部分を読んだ時にものすごく衝撃が走りました。

どうしても僕らは、「社交性」というと「上辺だけの付き合い」を想像してしまい、なんとなくネガティブな印象を抱きがちです。

「協調性」という「みんなが同じ方向性を向いているような感覚」のほうが尊いと思ってしまいます。

でも、みんなが既にバラバラになってしまった日本、そしてこれからのグローバル社会を生きていく上で、「協調性」という村社会的な発想は捨て去って、「社交性」を身につけることが絶対に大切になってくるはずなんです。

じゃあ、僕が考える「社交性」とはなにか。

具体的には「倫理観と誠実さを持ち合わせた、人柄が良いこと」だと思っています。

それは以下の記事でも書いたとおり。

参照:倫理観と誠実さを持ち合わせ、人柄が良くセンスあるヤツが勝つ時代。 | 隠居系男子

これからの時代を生きる僕らの生存戦略。

僕らはもう「わかりあえない」という前提から始めるしかない。

「誰ひとりとして同じ価値観を持つ人間など存在せず、全員バラバラである」というある種の諦めを抱えながら、それでも生きていくしかない。

これって、本当にものすごく面倒くさいことですし、寂しいことです。

「みんなが分かり合えるようになったら、なんて素晴らしいことなんだろう!」何度もそう願ってしまいますし、そんな世界を望みたくなる。

でも、そんな幻想を描いていると、いつまでもその苦悩を抱えたまま生きることになってしまう。

これは、ニヒリズムではなく、リアリズムです。

これからの時代を生きる僕らの生存戦略なんです。

だからこそ、しつこいようですが、下記の記事に書いている能力を身につけることが急務だなと。

参照:倫理観と誠実さを持ち合わせ、人柄が良くセンスあるヤツが勝つ時代。 | 隠居系男子

このブログをいつも読んでくださっている方々にも、何かしらの参考になれば幸いです。

気になる方は、本書もぜひ合わせて読んでみてください。とてもオススメです。

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