どうも鳥井(@hirofumi21)です。
3月27日の「ほぼ日刊イトイ新聞」の「今日のダーリン」で書かれていた以下の内容。
有名なマーケティングの格言に、
「人はドリルが買いたいのではない。
ドリルで空ける穴が欲しいのだ」というものがある。
これを言った人にも、さすがだなぁと思うのだけれど、
先日、「穴を必要としてないのに、
ドリルを欲しがる人がいるのではないか」
という意見を読んだ。
これ、前々からぼくも力説していたことだったのだが、
やっぱり同じこと思っている人がいて、うれしかった。引用元:ほぼ日刊イトイ新聞 – 目次
たぶん、上記で糸井さんが言っているのは、けんすうさんのこの記事のことだと思います。
参考:「目的があっての手段だ」なんて考え、つまらなくないですか? : けんすう日記
プロセスが失われていく現代。
「目的なんかよりも、手段のほうが輝いてたりすること」本当によくあります。そして、日本人はプロセスの方が大事だって事に気がついていて、それを大切にしてきました。
しかし、今はグローバル化の流れに伴い、上記のようなマーケティング用語が横行していて、急速にその感覚が失われているのかもしれません。その危機感については以下の記事に書いた通りです。
参照:『かぐや姫の物語』が若者に評価されないことに対する危機感。 | 隠居系男子
目的を最大化させようとすると、天下統一系のスパイラルにハマってく。
手段を最適化しながら目的を最大化するという行為は、ゴリゴリにアドレナリンを出しながらゲームのような感覚で達成していくことができるので、鬼のように興奮するし超絶楽しいです。それはマチガイナイ。
同時にお金や権威も手に入るので、更に大きなものが作りたくなって、「もっともっと!!」ってなっていく。それこそ、天下統一系のスパイラルにハマっていくわけです。
でも、そこで消耗するということももうわかっているはず。一方で、もっと淡々としたものをしっかりと捉え直していかないといけないってこともどことなく気付いているのではないでしょうか。
「これからの暮らしを考える」ということ。
じゃあ、その「プロセス」って究極的に何なんだ!?と考えてみると、それは「暮らし」なんだと思います。
「何をやるかじゃなくて、誰とやるか」という言葉もありますが、これもまさしくその通り。
何をやるかの部分には正直全くこだわりはないけれど、誰の部分にはめちゃくちゃこだわりがあります。
そして、これは自分にとって「理想的な日々の暮らしは何なのか」ということと同義だと思うのです。
ぶっちゃけ、究極的にはどんな仕事をしていてもいいんですよ。むしろ、何が理想的な仕事なのかなんてわからないから。これだけ変化が激しい時代には、その時の時流によって求められる仕事なんてコロコロと変わってきます。
「これが自分の理想的な仕事なんだ!」って頑なに言い張ったとしても、流行が移り変わり、消費者がいなくなればもう終わり。長年続いている日本の伝統芸能や文化、工芸品でさえもことごとく衰退していく中で、そんなものがまかり通るわけがないということは明白です。
一方で、理想的な暮らしというのは個々人の中に存在しているはずで、それはどんな時代でも追求することは可能だと思います。
上記の記事の中でけんすうさんが引用している「HUNTERXHUNTER」のワンシーンなんかも、とっても良い「理想的な暮らし」の一例ですよね。
最後に
暮らしは状態であって、変化じゃない。 「こうありたい」と願う気持ち、そこに自分が気がつけるかどうか、ただそれだけです。本当は誰にでも達成可能なもの。
「灯台もと暮らし」では、この部分をしっかりと表現していくことができればいいなと思っています。
「自分にとって理想的な暮らしとは何なのか。」他者の暮らしを眺めながら、自分の「これからの暮らし」について今一度真剣に考えてみて欲しい。そしてその答えを自分なりに探ってほしい。その一助を担えればと思っています。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!