どうも鳥井(@hirofumi21)です。
このブログでも何度も書いてきたように、僕は無類の「モヤさま」好きです。
参照:高城剛のメルマガと「モヤさま」が見つけてくれた函館の人の魅力 | 隠居系男子
「モヤさま」は、街歩き系旅番組にも関わらず、何度も同じ人達に会いに行きます。
ハワイのヌシカンさんであったり、ソープファクトリーのご家族、タップおばさんなど、放送時間帯が深夜だった頃のキャラが濃い人たちのところへも、当たり前のように訪ねていったりするわけです。
最初は「内輪感すげぇな…」って若干引いて観ていたのですが、最近はそれがすごくいいなと思うようになりました。
「一期一会ではなく、もう一度会いにいく。」なぜそれがいいなと思えるようになったのか、今日はその理由について自分なりに少し考えてみようかなと思います。
「またくるね!」が信じられない世の中。
今の世の中は、選択肢が増えて、調べるのも簡単になって、行きたい場所が後から後から湧き出てくるような時代です。
その無限の選択肢の中から、偶然性・偶発性を楽しむことの方が良しとされています。
しかし僕らどこかで、その“希薄さ”や“浅はかさ”に対して無意識のうちに違和感を感じているのではないでしょうか。
そんな中、「またくるねー!」という別れ際のセリフを本物にする「モヤさま」。
1回目は“偶然”でも、2回目以降は“必然”になります。90年代のやすいメロドラマみたいな言葉ですが、それって今の世の中だからこそ本当に意味があるのではないかなと。
そこにコミュニケーションやコミュニティが存在するから可能になる。
本来、旅番組なんて継続的に見てもらえるような類いの番組じゃありません。
暇つぶし感覚で見てもらって、番組内で起こる“一期一会”をゆるーく楽しんでもらうのが本来の旅番組のあるべき姿でしょう。
しかし、モヤさまはその王道を完全に無視しているわけです。たまたま出会った素人さんにまた会いにいくというのは、めちゃくちゃハイコンテクストな内容だし、その素人さん相手に、前回よりも面白くするというのはものすごく難しいことだと思います。
しかし、それを覚悟した上で会いにいっている潔さみたいなところに共感するというか、忘れてたものを気づかせてもらっている感覚になるんでしょう。
更に、確かにそれは内輪ネタかもしれないけれど、その内輪ネタを放送できるっていうのは、固定のファンがしっかりと付いている証拠でもあるわけです。
継続的に観続けてくれている人たちがちゃんと存在して、番組というコンテンツの先に視聴者とのコミュニケーションやコミュニティがしっかりと育まれているからこそ可能なことなんだろうなと思います。
ウェブの世界でも、「もう一度会いにいく」を意識する。
さてこの話、ウェブのコンテンツでも同じようなことが言えると思っています。
これだけ、コンテンツが溢れかえっている現代においては、興味関心のひくコンテンツなんて、毎日鬼のように流れてくるわけです。
そんな中、自分のタイムラインにたまたま流れてきたコンテンツを読んだという1PVと、またあのコンテンツが読みたくなって、わざわざ読みにきたっていう1PVでは、たとえ同じ1PVであっても全く意味の異なる1PVだと思うのです。
作っている側も見る側も、その違いをしっかりと認識できているのかどうか。
作り手側は「一期一会のコンテンツではなく、またもう一度会いにいきたくなるようなコンテンツを作っているか」読む側も「またもう一度会いにいきたいと思えるようなコンテンツの消費の仕方をしているか。」今改めてそんなことを考え直すタイミングなのではないのかなと。
最後に
LINEやTwitter、FacebookのようなSNSが普及したことによって、いつでも誰とでも気軽に繋がり、ウェブ上でもリアルでも一期一会を楽しむ機会というのは増大しました。
「あの一期一会が、なんか良かったなぁ」とカンタンに終わらせてしまうのではなく、「もう一度会いにいく」。
これだけ選択肢が多い世の中だからこそ、「もう一度会いにいく」が大きなキーワードになっていきそうだなと考える今日このごろです。
皆さんの何かしらの気付きに繋がれば幸いです。
それでは今日はこのへんで。
ではではー!