どうも鳥井(@hirofumi21)です。
インターネット上で発信する意義について最近よく考えます。
多くの人が「どれだけ人を動かせたのか?」ということを重要視していますが、僕は「人の動かし方」のほうを重視するべきだと思います。
今日はそんなことについて少し書いてみようかなと。
多くの人を動かしたいのなら、マスメディアの方がいい。
「人を動かす」ことが、目的であればマスメディアに勝るモノはありません。
限られたチャンネル、限られた時間と枠、マジョリティ層に向けられているマスメディアはネットよりも圧倒的に多くの人を動かせます。
どれだけ斜陽産業と言われていても、マスメディアによって動いている人の数はまだまだ突出しているんです。
だからこそ「多くの人を動かす」を重要視するのであれば、ネットを選ぶべきではない。
それでもインターネット上で発信するのであれば、人が動いた結果よりも、人が動くそのプロセスにもっと価値を見出すべきだろうなと。誰が、どんな風に、どんな想いで動いてくれたのかということの方が重要な要素だと思うのです。
時間も空間も飛び越えて無限に広がっていくインターネットの意義。
でもそんなものが指標になるのか?ごもっともな疑問です。
確かに、こんな曖昧なことを数値化するのは難しいです。動いた人数を数えてしまったほうがよっぽど数値化しやすく指標になる。だからこそ、こうゆう主張がなされてきたのだとも思います。
参照:「広告やメディアで人を動かそうとするのは、もうあきらめなさい。」の主題は「メディアで人間を“何人”動かせるか」 | 隠居系男子
しかしそれでも、時間も空間も飛び越えて無限に広がっていくインターネットの意義っていうのはそこにあるのだと思うのです。皆が広く平等に使えるものだからこそ、全く見知らぬ誰かと一瞬で繋がる瞬間に価値があるのだと。
ネットは届く”可能性”を秘めているだけ。
さて、ネットは届く可能性を秘めているだけで必ず届くというわけではありません。世界中のどこかにいる、あなたと同じ感性を持つ人のもとへ届く“可能性”があるだけです。それがネットの残酷なところでもあります。
しかし、ソレを受け入れた上でネットで発信することを諦めなければ、そうゆう瞬間が稀に訪れるんです。とてつもなくハイコンテクストで、到底理解されるはずがないと自分でも諦めていたことが、突然伝わる瞬間が。
どんなにマイノリティな内容であっても「だよね!」「うん!」で通じ合えるとき。それこそがマスメディアでは叶わないことであり、インターネットで何かを発信する意味ではないのかと僕は思うわけです。
最後に
「編集権限が自分にある」その意味を改めて考えるきっかけにしてくれればいいなと思い、今日の記事を書いてみました。
自分はこの快感を味わってしまったからこそ、インターネット上で文章を書くことがやめられないのだと思います。そしてこの価値観を理解した上で実社会に戻ってくると、人生がものすごく豊かになるということも学びました。
参照:365日毎日ブログを書き続けてみて思うこと。 | 隠居系男子
それこそがまさに、以下の記事で書いた「インターネット的に生きる」ということにも繋がるのだろうなと…。
参照:2001年出版の糸井重里著『インターネット的』が驚くほどの預言書だった。 | 隠居系男子
皆さんの何かしらの気付きにも繋がれば幸いです。
それでは今日はこのへんで!
ではではー!