昨日は「島の大使館」のイベントでした。
6月6日(木)東京「風土はfoodから」開催「新しいチームのあり方を聞いてみよう!」に登壇します。 | 隠居系男子
このイベントの後半で、どんな話の流れだったかは忘れてしまいましたが、「モラトリアム期間はいつまで続けていいのか?」という話題に。
そのときに自分がお話した内容をこのブログにも、備忘録的にまとめておきたいと思います。
本人が納得するまでモラトリアム期間を謳歌すればいい。
僕は、本人が納得するまで思う存分モラトリアム期間を謳歌すればいいと思っている派です。
「新卒一括採用に失敗したら人生が終わる」なんて話は完全にウソだと思っていますし、他者の気持ちが理解できるようになれば、どんな状況になっても働くことはできる。
そしてなにより、どれだけ鬱々とした気分になって拗らせてしまっても、人生すべて「塞翁が馬」だと思っていて。
それは下記のツイートにも書いたとおりです。
過去に拗らせまくった人って、自分の過去に対して自己嫌悪に陥りやすいんだけど、誰かの現在進行系の拗らせやその孤独にそっと寄り添える優しい人になれるんだよね。過ぎてしまった過去に絶望して、その過去を呪うのではなく、どうか愛の形に変換させて、他者貢献から自分の過去も肯定して欲しいです。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2018年6月24日
理解者が現れないことで、より孤立してしまう。
思うに、自分に経験がしたことがないことは、どこまでいっても想像の粋を抜けません。
自分はできたんだから「そんなことで甘えるな」っていう発想になってしまう。
そうすると、また同じようにモラトリアムに陥ったひとたちに対して、寄り添えるひとがいなくなってしまうんですよね。
理解者が現れないことによって、より孤立していってしまうという悪循環になってしまう…。
今の社会の価値基準は、今この瞬間の価値基準でしかない。
そもそも、モラトリアムをネガティブに捉える社会って、何かが優れていて、何かが劣っていると判断し、モラトリアム期間がない人間のほうが優れているっていう判断をしているのだと思います。
でも、社会の中における「優れている・劣っている」や「普通である、一般的である」という価値観は、いまこの瞬間の社会においての価値基準でしかありません。
それが「絶対的である」と捉えて判断してしまうと、優成思想にも繋がってしまう。
当然、時代や環境が変化すれば、今は劣っていると判断される価値観でも、将来的には「優れている」と判断されることだってあり得ます。
現に、昔は教育の中で矯正されてしまうような「多動症」のひとたちも、今はその持ち前の行動力をドンドン生かして、優れたひとたちという認識になっている。
参照:多動力は身につけるものではなく、開放するもの。 | 隠居系男子
最後に
やはり、いつだって自分の心の声に従うことが一番だと思います。
そのためには、まわりからなんと言われようとも、自分の違和感には正直でいること、そして頭ではなく腹で考えること。
その結果、モラトリアム期間が長引いてしまっても全く問題ないと思います。
もちろん、その結果として、叶わない夢だってある。
でもその叶わなかった夢のおかげで、獲得できる「優しさ」もある。
その優しさから生まれる他者への理解や寄り添う姿勢が、社会をより良くするのかもしれないと思います。
それが寛容な社会につながっていくわけだから。僕はそんなふうに考えます。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考になったら幸いです。