どうも鳥井(@hirofumi21)です。
先日書いた以下の記事。
バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。 | 隠居系男子
今話題の内容というだけあって、皆さんから様々なコメントをもらいました。そしてそのコメントは、肯定的な意見と否定的な意見がキッパリと分かれました。
それが個人的に非常に興味深かったので、今日はその原因について自分なりに探ってみたいと思います。
Twitter上で頂いた感想
まず結論から言うと、肯定的な意見も否定的な意見も、どちらも大変嬉しいものでした。皆さんがしっかりと読んでくださっていることが伝わってきて、このような意見を貰えることがブログを書いている喜びでもあります。
それではまず肯定的な意見からご紹介しましょう。
あーなるほど。バイラルメディアに関する考え方で一番納得できたかも。 ▶ バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。 | 隠居系男子 http://t.co/rJqGeLkGhb
— 野村純平(男子ハック) (@JUNP_N) 2014, 9月 2
超良記事。必読。バイラルメディアというノンリニアなコンテンツを楽しむ時代。パッケージとして楽しめるコンテンツとは、人や親近感というハイコンテクスト。/バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。 http://t.co/7Nw0d8aYSj
— らるごどらいぶ@愛妻家&愛犬家 (@largo_drive) 2014, 9月 3
かなり腑に落ちた。問題解決にはならないけどスッキリした。@fashionsnap: 話題のバイラルメディアに対する違和感の理由 http://t.co/78Ip3jdJAF
— tomoyuki omatsu (@tomoyukiomatsu) 2014, 9月 2
次に少し否定的な意見。
リニア、ノンリニアとハイコンテクスト、ローコンテクストを混同している気が。ノンリニア=ローコンテクスト=バイラルメディアとは必ずしも限らない。>バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。 http://t.co/ReZKCThG8B
— 栗田穣崇Shigetaka Kurita (@sigekun) 2014, 9月 3
なんだろう・・・珍しく違和感を感じるというか掴めないエントリーだった – バイラルメディアに対する違和感の理由と、”親近感”というハイコンテクストの可能性。 http://t.co/5Ol52XKuXp @hirofumi21さんから
— けんしん (@okyaaaann) 2014, 9月 2
バイラルメディアに対する違和感の理由 | http://t.co/MwwszYMyig http://t.co/zizaNm9K6w 題名から意識高い系文章。意識高いワードと一部接続詞のせいで読みにくいかも。でも内容は面白くて納得させられる部分もあった。内輪ネタの話はハッとした。
— sgl (@sgl_Dylandy) 2014, 9月 3
「意識高い系文章」とは?
さて、上記のコメントの中にもあるように「意識高い系の文章」とはどんな文章を指すのでしょう?
僕は、意識が高いと言われてしまう一番の原因は、他人の言葉を借りてきてドヤ顔で語っていることだと思っています。
引用してそのまま乗っかっているだけで、本人の考えは何も含まれていない。そんな文章や発言に対して人は意識高い系と罵るのでしょう。僕自身も他人のそういった言動でイラッとしてしまう事は多々あるので非常によくわかります。
そしてこの意味から言えば、今回の文章は確かに「意識高い系の文章」に分類される箇所がいくつもあるので、このご指摘は間違いありません。
スタート地点を共有している人だけに向けた排他的な文章
ただ、今回の記事は敢えて「意識高い系の文章」の書き方で書いてみました。それは、意識高い系の文章にしないと読者の皆さんに誤読されてしまう可能性があったから。
自分が捉えている前提知識を、イチから自分の言葉で説明していくのはハードルが高すぎました。いや、正直な所、今の自分ではその前提知識を説明するだけの能力を持ち合わせていなかったのだと思います。
カンタンなことほど自分の言葉で説明するのは難しいものです。
読者のリテラシーに頼り、スタート地点を共有している人たちにだけ届いてもらえればいいと割りきって書いたので、これほど排他的な書き方になってしまったのです。
参照:読者のリテラシーを信頼するということ。 | 隠居系男子
でもだからこそ、その前提知識が僕と近しい人にとっては、ものすごく腑に落ちる内容になったのだと思います。
気付き過程を晒すことに意味がある
さて、文章を書く時は、絶対にこうゆう書き方をするべきではありません。正解か不正で言えば完全に不正解です。
しかし、ブログというフォーマットだからこそ、こうゆう書き方もありかなと思っています。
自分が誰に対しても過不足なく説明できるように、完全に腹落ちするまで発表しないのではなく、その答えにたどり着くまでの過程さえも書き残しておくことに意義があるのではないかと。
「自分の思考過程そのもの」を公開している感覚です。
確かに、マスメディアや書籍というフォーマットでは絶対にやってはいけない表現技法かもしれません。しかし、ブログという「ストック」と「フロー」の中間を行くフォーマットだからこそ許されるやり方だと思っています。
例えるのであれば、アーティストやクリエイターのライブ本番とドキュメンタリー映像の関係に近いのかもしれません。
今回書いた内容も、今後もう少し自分の中で咀嚼できたタイミングが来たら、似たような内容をもっとわかりやすい文章で書くタイミングが来ると思います。
そこまでの過程も含めて公開しておくことが、「ブログ」の意義というか価値だと思うので、こういった文章もドンドン書いていきたいと思っています。
最後に
人が何かを学ぶとき、「他人の言葉」と「自分の言葉」を使って表現しなければいけません。
そうやって「真似ぶ」時期を経由することで、人は学ぶことができるのだと思います。
以前書いた「圧倒的にダサイくらいミーハーにならないと、本質は見抜けない。」という記事でも書いたように、この道を通らなければ本質は絶対に見抜けません。
僕らはこれを恐れてはいけないのだと思います。他人に罵られながらも出し続け、常にその状態に自覚的であること。堂々と真似ていきながら、真似る自分をしっかりと恥じ続けること。
そうやって反復してアウトプットしてくことで、気付けば自分の言葉で語れるようにまで成長していくのだと思います。
今日のお話が皆さんの何かしらの参考になれば幸いです。
それでは今日はこのへんで!
ではではー!